こんにちは、たまおです。
前回はNHK番組「あさイチ」で特集された毒親、そしてNHK「#となりのこもりびと」の記事について自分の感情と重ね合わせて吐き出しました。
今回はその記事についてTwitter上での反応を中心に考察します。
なぜかモヤモヤするんです。共感コメントはいいんだけど、批判コメントを見ると悲しくなるというか切ないというか怒りも感じるけど、なぜ自分が批判されてるわけじゃないのにそう感じるのか?
記事に沿って自分の経験を書き出したのは前回の記事で。

Twitter上の反応
NHKで特注が組まれているとTwitterのニュースで知りました。そのTwitter上ではいくつかのコメントが散見されました。
今回の記事に限らず、毒親特集が組まれるといつも似たような反応が見られます。
1.共感するコメント

まずは私のように共感する立場の人々。
虐待サバイバーの人、パワハラ被害の人、私のように、そこまで毒親ではないけど親に微弱な毒を覚えている人。
私が見た感じだと、そのコメントをしている人に共通しているのは「自分の親が毒親ないしは非常識な人間と認識できた人」という印象です。あるいは共感を示すことが出来る人。自分が毒親育ちというわけではないけど他人の悩みに共感できる人、という想像です。あくまで想像です。
私のTLでいうと毒親育ちやアダルトチルドレン、HSPなどの単語でつながっているのでどうしてもそちらの立場からのツイートが流れてきます。反対意見は自分から記事のコメントを見ない限り目に触れません。
2.反発するコメント
当然、毒親問題に反発する人々もいます。番組内でも「誰が毒親なんて言葉を生み出したの? ひどい」というメッセージが寄せられており、案の定私のTLでは意見が飛び交っていました。
反発する人を否定する気はありません。その人自身の人生と考え方があるんですから。
もしかしたらその人自身が子供を持つ親の立場なのかもしれません。
その人を非難しているわけじゃないのに、自分の教育方針や、頑張って子育てしている自分を責められたような気持ちになってしまうのかも。
「親になってから言え」とツイートしてる人もいました。
それとも、本当は気づいないけど、その人自身も親に対して抱く何かがあるのかもしれません。
でもそれを認めれば自分の好きな人を否定することになるから、無意識に押し込めているのかもしれない。その反動が強烈な拒絶として現れているのかも?
自分も親に厳しく育てられたけど、その怒りや苦しみを「過剰な感謝」で覆い隠している人というのは多いです。
人の心理として、何かに対して強く拒絶したり攻撃的になるというのは防衛手段でもあります。自分や何かを守る時に怒りというエネルギーが生じます。守っているものは心や感情かもしれないし、倫理観かもしれない。
こちらの書籍にその「怒り」についての旨が書いてあり非常に納得しました。だって無関心なものには怒りもなにもわきませんもの。怒り、恥じ、よくない感情の裏側の意味を知ると「そうか、私は本当はこう思っているのか」と自己理解への一歩につながります。
「毒親」「親ガチャ」という言葉への批判
毒親という言葉については、散々語られていますがスーザン・フォワード氏の著作『毒になる親』からきています。このブログでも何度も紹介してきました。毒親に当てはまると思っていなくても、読んでみると気が付くことがたくさんあります。
しかし毒親という言葉自体に反対する人もいます。
実はあさイチに登場された公認心理士の信田さんも「言葉自体は好きじゃないんですけど」と言われておりました。
精神科医、カウンセラーの中でもその言葉が好きじゃないという人はいます。もちろん言葉が好きじゃないというのにはその人なりの理由がありますが、それは決して親を擁護するものでも、親との関係の問題を無視しているものではありません。
Twitterでも「なんでもかんでも毒親っていう」「すぐに親ガチャ失敗したっていう」というコメントがあります。
私も自分が毒親育ちだと気づくまでは「なんにでもその言葉使うのか、軽い言葉だな」と感じていました。
しかし自分が親子関係に不満を抱いていたと気づいてしまってからは、そういうコメントをする人を見るとモヤモヤするようになりました。
親を憎む・恨む感情への批判

類似するコメントとして
「親を悪く言うなんて人格としてヤバい」
「育ててもらっただけで幸せと思え」
「最近は何でもかんでも親のせいにしすぎ」
「甘えでしかない」
みたいなものがあります。
今そのコメントを見て思うのは、彼らも人間関係で苦しんでいる人たちなのだろうか、ということです。
なぜならば「温かい家庭で愛されて育った人はSNS上で他人を批判しない」「承認欲求が満たされている・自己実現がかなっている人はSNS上で批判しない」からです。彼らは自分自身が確立しているからこそ、他者の様々な在り方を認めることが出来ます。
あるいは「自分自身も過酷な環境で育った、だからこそ人を傷つけない人」も他人を批判しません。言葉や態度で傷つけられる痛みや苦しさを知っているからです。
メンタルが強い人や満たされている人は、苦しんでいる人に向かって余計に追い込むような言葉は言いません。それがたとえ顔の見えない、ニュース記事にぶら下がるだけのコメントであっても。
だからSNS上で顔が見えないからと言って、ニュース記事のコメントに過ぎないからと言って、誰かを傷つけるような言葉を発したり理解を示そうとしない人は闇を抱えているのかも、と思っています。
コメントの裏側を想像してみる
- 親に感謝をしなければならない(義務)、と思っている?
- だからそれが出来ない人を非難したくなる?
- 親に強要されたのか、親への怒りを「感謝」で覆い隠しているから堂々と親を嫌っている人を憎むのか、社会的風潮に思わされてるのか……。
- 親子関係の本や記事や動画など各所で言われていますが「親への感謝、親孝行というのは自然と子供自身の中で沸き起こるもの」です。
- 自分はもっとしんどい思いをしてきた?
- 自分が誰かの親代わりをしてきた?
- 衣食住に困ったのかもしれない?
- そういう身近な存在がいるのかもしれない。
- 育ててもらえなくなる、という不安が常にあった?
- こんな風に思わないと幸せを感じられないぐらい追い詰められているのかもしれない。
- 逆に言えば親のせいにせざるを得ない時代なのかもしれない。
- 戦後の混乱期から始まった世代間に受け継がれてきた毒が、集約されてきているのが今の時代かもしれない。
- 親子関係の苦しみを発信できる機会が格段に増えたのが今の時代。
- 今から100年前、50年前は全く違う家族像でした。今後50年後、100年後には全く新しい家族像が作られていることでしょう。ちょっと楽しみです。
- きっとご自身はどれだけ辛くても根性で耐え抜いて頑張って生きているのだろう。
- 甘えることが出来ない、甘えることが許されないのかもしれない。
- だから容易に誰かのせいにする人が許せないのかもしれない。
- 他人のせいにすることが出来ない、自責思考の人なのかもしれない。
- その人も張り詰めた空気を抜いてほしい。
「もう大人なんだからいい加減親から逃げればいいだけ」「甘えてるだけ、自立しろ」というコメント

毒親問題にありがちな反論です。
私はこれらには前項の「強い批判」というよりは「無関心からくるもの」「共感性のなさからくるもの」と感じます。潰してやる!というより、投げやりな感じです。
「もう大人なんだから親から逃げればいいだけじゃん」
「いい年していつまで親のせいにしてるの?」
これ、毒親育ちの子供自身も思ってます。なのに、できない自分を責め続けてます。逃げれば逃げたで罪悪感に襲われます。逃げなきゃ逃げれない自己嫌悪にも襲われます。
親を捨てる、親から逃げる、親と縁を切る、今後は親は死んだと思って生きる。
それが正解の時もあります。毒親の種類によっては一刻も早く逃げるべき親はいます。四の五の言わずに身の安全を確保することが優先だよ!という状況。
でも洗脳されてきた毒親育ちって、なかなか逃げることは出来ないですよね。
だから人によっては病んでるんです。
「毒子」「子ガチャ」はないの?というコメント

「子ガチャ」については後述で。
「毒子」はなくはない、と思います。
それは
毒子=親の言うことをきかない、全然しつけができない、約束を守らない、人に迷惑ばかりをかける
という意味ではありません。
Twitter上で「うちの子はわがままで全く私の言うことを聞いてくれません。私がどれだけ言っても通じません。正直私も付き合いきれない。毒子は存在します」という子育ての悩みを呟く人がいました。
それはそれでしんどいだろうな、と思います。お母さんだって必死でしょう。かといって、それはお子さんが「毒子」なのではないと感じました。お母さんが悪いわけでもないです。その方には親子関係のカウンセリングを受けてほしいと思ってみていました。
ただし、毒子=サイコパス(精神病質者)はあると思います。
もうこうなると親の接し方とか愛情とか家庭環境とか関係ないです。どれだけ愛され温かな家庭であってもサイコパスはどうしようもありません。脳の構造が違いますから。
毒親の中にはサイコパスが存在します。
ならば逆に、サイコパスに翻弄される親もいるのではないかと思います……。この場合、虐待や何らかの理由で脳に障害が生じて至るものではなく、先天的に脳の構造が違うパターンのことを言っています。
私もサイコパスにやられました。下記の記事で身近にいたサイコパスを簡易的に紹介しています。

さらに「これは毒子」と言わざるを得ない古い作品と、サイコパスはどうしようもないことがわかる書籍を下記に紹介しておきます。
「悪い種子」については外部のサイトであらすじを確認できます。
サイコパスについて知りたい方はこちらがおすすめ。サイコパスは必ずしも凶悪犯罪者ではなく隣にいます。
「子ガチャはないのか?」「ガチャが嫌なら子供を作るな」という反論
「親ガチャばっかりいうけど子ガチャはどうなんだ」
という意見について触れます。
これに対してはTwitter上ですでに
「子供は生まれることを選べないけど、親は自分の意思で子供を作って産んでいる」
「ガチャが嫌ならガチャを回すな」
の反論がありました。
確かに、子供は生まれてくるしかないというか……生まれなければ何も始まらなかったというか。生まれてこなければ何も感じなかったのにな、という虚無感は絶えず抱いています。
それに対して親は子供を作るのも任意、避妊もできる、産むか否かも親が決定できます。
それはそうだ、と思う一方で、でも「嫌なら作るな」論は違うような気がする、とも思うんです。
子を持つことは親の完全なる自由意志だ、と突き放していいのか?
まず「予測されるあらゆるリスクを避けたいなら何もするな」論と同じ理不尽を感じて、それを言うと何もできないじゃん、と思ってしまいます。
それと、時代・場所・環境によっては子供を作らなければならない、というほぼ強制されるようなこともあるのではないかと思います。悲しいけど。
自分より優位な立場の人たちに追い詰められてしまう状況。洗脳。
現代だって、農家の長男の嫁は男児を産め、みたいな風潮はありますよね。毒親育ちじゃなくてもモラハラ義実家に毒されて洗脳されて苦しんでいる人は多いです。
「そんなわけあるか! 嫌なら逃げればいいんだから!」
と反論も聞こえてきます。
でもやはり洗脳されてたらそう簡単にはいかないと思います。
長男教、モラハラ義実家、毒親実家。それこそ毒親育ちが「いやなら逃げればいいじゃん」と言われるのと同じ状況です。
簡単に逃げれないから病むんですよね。
私が感じたモヤモヤの正体は

「なんでも毒親って言いすぎ」
「子ガチャが嫌なら子供を作るな」
「毒親が嫌なら逃げろ」
これ、全部同じ土俵の話に聞こえます。
つまりそれは「その人の抱えてる苦しみを無視して責めてる」ということだと感じました。
だからどのコメント見ても(共感コメントを除く)、うーん、とモヤモヤしたものがあるんだと思います。問題の本質はそこじゃないんだけどな……と。
まとめ
まとまりません!
だって親子関係は昔も今もこれからもあるもので、たとえ親が死んでも自分の中に残り続けるもので、社会にはその部分を攻撃してこようとする人はいます。
その世界で、こんな私で生きていくしかない。でもこのまま立ち止まっていたら生きていけない。
だから私は親のせいにしたり親への怒りを感じながらも、自分自身を獲得していきます。がんばる。