こんにちは、たまおです。
引き続きNHKあさイチ「毒親特集」について感じることを書きます。NHKの朝の番組で堂々と毒親について毒親育ちの気持ちを発信してもらったことで、改めて私自身も自分を振り返ることが出来ています。


今回は
が結論です。
番組はNHKプラスで視聴しました。下記はNHKのネット掲載の記事です。
言ってることはわかる
公認心理士の信田さんのコメント、また番組内の青木さやかさんのコメントからは「親と心理的に離れる」「親と接するときの自分は演技をする」という印象を受けました。
毒親への対処法としては基本ですよね。
距離をとる。実家を出る。連絡を取る頻度を減らす。だんだんと心理的な距離をとる。
毒親は理解してくれない、もはや他人ととらえて接するしかない

わかってます。理解してくれるなら、子供の声に耳を傾けてくれるなら最初から毒親なんて言われていません。人対人の話し合いが出来て安心感のある親子関係が形成されていたでしょう。
理解してくれないのは当然。親と言えども他人は他人。
じゃあ私たちは他人にはどう接するのか?
それは私たちは言われるまでもなく、いつもできていることなんですよね。
他人に親切にすることが出来る人は多い

毒親育ちの中には
- 相手の顔色を窺うことに長けている。
- 空気を読んで立ち回ることが上手。
- 困っている人、弱っている人を放っておけない。
などの特技があります。
それはつまり他人に優しく・親切にすることが出来る人だと思います。
私も毒親曰く「あんたは人間嫌い」「老人も子供も障害者も嫌いな異常者だ」と言われ続けていますが、自分としては親切心がない人間ではないと思っています。
困っている他人に手を差し伸べることはできる
職場や店員にニコニコして親切にすることはもちろん、実際に私も見知らぬ人へ親切?放っておけない?経験はあります。
福祉系研修の休憩時間――自転車をこいでいるお爺さんが公園の縁石にぶつかって転倒した。
それを見ている人は他にもいたのに、とっさに駆け寄ったのは私だけだった。周囲にいるのは福祉系研修の受講者なのに。
声をかけるが自力で立ち上がり立ち去っていくことが出来たので、結果としては何事もなかった……のかな?
でもそれを横目に見ながら素通りで立ち去ることはできない。
地元の駅の窓口で外国人が駅員相手に困っていた。恐らく切符が欲しいらしいけど、駅員は全く英語でコミュニケーションをとろうとせず、一方的な日本語で新幹線の切符や定期券を購入させようとしていた。
見かねた私が声をかけ、拙い英語(単語)とジェスチャーで今日限りの切符でいいことが判明し一緒に購入。使い方を再確認し、笑顔で出発した。
地元でそこそこ広めの本屋。大人でも別行動をすると、なかなか自然には再会できない広さ。
そこでずっと本棚の間を泣き泣き、涙をぬぐいながら走っている小さい子がいた。
何回か見ているとやっぱり「誰かを探している迷子っぽい」と感じて声をかけ、店員さんのところへ連れて行った。そうしているとお母さんが合流。
本棚には大人がたくさんいたのに、誰一人その子を気にかけていなかった。
あとで一緒に来ていたプチ毒母に言っても「え、そんな子いたの?」程度だった。
泣いて困っている子を放置はできない。
保護猫活動のボランティアもする
ブログではたびたび書いていますが、保護猫活動もやっています。当然見返りのないボランティアです。見返りというなら、猫の幸せや人同士の感謝のやり取りでしょうか。
大半の人が野良猫なんて無視してます。
でも私はそれが出来なくて、自分のお金と時間と労力を使ってでも、保護が必要な猫は保護し幸せにしてくれる家庭に引き渡します。
これも親切……というか、心のない冷たい人間がこんなことするかなあ?
なのに毒親にはできない。何故?

でもなぜか親と姉に対しては親切心が起きないんです。それどころかつっけんどんな対応というか……姉にはイライラさえする。
存在を忘れがちだけど、父も早く消えればいいのにと思います。たぶん、本当にこの世から消えても何も思わないと思います。嫌いだった同居の祖母が亡くなっても何一つ感情が動きませんでした。
「義理の親は介護できるけど自分の親ならキレてた」
介護経験者からよく聞くし身近な人からも聞きます。この夏も伯母から聞きました。
義理の親は介護できるけど、これが自分の親だったら怒っちゃうわ~。
私の「親に対しては親切にできない」というのはこれと似た心理なのかな?と思います。
加害者相手に親切にできるのか?
毒親育ち全員に「他人行儀に接して、時々親切にするつもりでいい」とは言えないと思います。毒親タイプや生育環境が違うのだから、個別のケースによって対応は様々なのでしょう。
加害者と言っていいようなことをしている人もいます。そんな人に親切心はおきませんよね。
私の場合はプチ毒親ですが、もっと過激な親の元で育った人は多いです。
私のプチ毒親には親切に出来るか?
私としては親切心のつもりでやっています。だって姉でもできることをあえて休職中の私に言ってきて、私がやるんですから。
どこかへの運転手になることも、調べ物をすることも、連絡窓口になることも、それってあくまで私はただの「道具」でしかありません。私じゃなくてもいいんです。道具なら、姉だってなれる。なのに私ばかり命じられる。
母の頼みを断ることもできますよ。でも断ったら還暦の人間に全部させるということです。
それは人間として気の毒に感じるから、30代の娘が60代の母親の手助けもしないのかという呆れがあるから、私が手を貸している。それは私なりに親切心でやっているつもりです。仕事に復帰すればそれが業務になりますが。
別にあなたが断れば、母自身で行く手段を調べていくでしょ
と思われるかもしれませんが、私が断れば、プチ毒母は私を責め、自力で運転して、最悪他人に迷惑をかける恐れがありますし、何かあってからでは私の罪悪感につながります。
60代でもバリバリ自分で挑戦し
公共交通機関使って役所へ行って勉強してきたわ~♪
ぐらいのエネルギッシュな人は多いですけど、うちのプチ毒母はいつも偉そうなくせにそういう度胸がないんです。
実際、プチ毒母は駅前に自分で運転していって今までと違う道になってたから運転操作でパニックになった経験があります。公共交通機関やタクシーを使うぐらいなら自分で運転する、という危険思考です。
いや何年も前の記憶を頼りにするなよ。
場所を事前に調べて電車で行けばいいじゃん。周囲の安全が第一だろ。
としか思えませんでした。
あ、こういうときに「大丈夫だった?」の気持ちがわかないから、やっぱり親切ではないです。
心理的距離と心を殺すことの違いはなに?

親切に接するためには、まず他人と思って心理的な距離をとらないとできないと感じます。
でもこの心理的な距離って何なんでしょうか?
私は母親に命じられてお供をしているとき、絶えず車内で母親の大きい声で愚痴を聞かされ続けています。
そして休職して母と関わる時間を減らして再会した時に気づいたのは、私は母と会うときに心が死んでるということでした。
母の愚痴に同調したら自分がゴミ箱にされる。
反論しても母が不機嫌になってさらにうるさくなる。「でもでもだって」が気持ち悪い。
じゃあもう黙ってるしかない。適当に「ふーん」「へー」と適当な相槌だけ打ってます。いかにも運転に集中してますよ、みたいな体で。
これを心理的な距離をとることに成功していると言えるんでしょうか?
私はその間一向に楽しくない。疲れる。ぐったりするし悪夢も見る。翌朝までメンタル不調を引っ張る。
ただただ感情が引っ張られないように、揺らがないように、感情を押し殺しているだけと、どう違うんでしょうか。
こうして口数が減ったり、適当にいなすことが続きますと、今度はプチ毒母がパワーアップするんですよね。
あんたは冷たい。
仕事してないあんたにはどうでもいいだろうけど。
私は必死になって仕事してるのに。
あーしんどい、疲れた。
あーあ、貴重な休みがこんなことで終わるなんて。
などなど、私を責める言葉、嫌味が投げかけられるんです。
何なの?
まとめ:まだ無理
プチ毒親を他人と思って、他人行儀に、親切に接すること。
私にはまだできません。

親切にしてるつもりだけど本心ではできてない。同じ親を持ってるのに何もしない姉を恨むことにもつながる。感情を押し殺すことしかできない。嫌味を言われる。結局プチ毒母の機嫌に振り回される……。
ほど遠いです。
まあ、プチ毒母とそう簡単にうまく付き合えていたら、私がこんなに何度もキレたり泣くことはなったでしょうから、難しくて当然です。
ゆっくりやっていきます。