こんにちは、たまおです。プチ毒親育ち・プチ機能不全家族育ち・プチアダルトチルドレン、絶賛適応障害で休職中です。
Youtube動画に出てきた広告にまんまと流されて、「母性」(湊かなえ著)を読みました。映画化されたということです。戸田恵梨香さんが母親役ということに衝撃を受けた年代です。
広告の時点で予想はついていましたが、実際に読んでみるともどかしいような、ドン引きするような、腹立つような、そんな気持ちで夢中で読んでいました。どうしても私は娘立場で見てしまうのですが、母親立場で読む人はまた違う感想を抱くんでしょうか?
感想:怖い!
何が怖いって、「母(私)」「娘(わたし)」「父(夫)」の名前がほぼ出てこないことが象徴的です。
母(私)にとって、娘は名前で呼ぶ相手ではない。夫に至っては名前や「夫」ではなく「田所」と苗字呼びです。
娘(わたし)が両親や自分の名前を使わないのは自然なことではあると感じます。だけど事件が起きた時になってやっと、自分の名前はそうだった、と気づくのが切ないというか悲しいというか……いったいどれだけ長いこと名前を呼ばれていなかったのか……。
父(夫)は妻である「母(私)」から「田所」と名字で呼ばれる始末。そして寡黙。頼りにならない、頼りになる、どっちだ。いや、頼りにならない、それどころか「最低」というのが最終的な評価です。とはいえ彼もまた毒親育ち……被虐待児として鬱屈している人物だったわけです。
理由1:母親の「お母さん」離れができてないのが怖い
初っ端から母親の手記では、「母に愛される娘」として始まります。「母」の人生は常に彼女の「お母さん」のための人生です。といって「お母さん」が強要しているようには見えません。これも「母」視点で書いているので実際に「お母さん」がどんな人物だったかは不明ですが、「母」がこれほどまでに「お母さん」に執着し「お母さん」のために生きる人物になったからには何か理由がありそうな気もします。
何をするにも「お母さん」のため、「お母さん」を喜ばせるため、「お母さん」が気に入ったから私も選んだ、という生き方です。この「母」は、彼女自身の意思や気持ちが薄いのです。
理由2:母親が娘を育てるのは「お母さんのため」でしかないのが怖い
結婚した「母」と「田所」には子どもが出来ましたが、「母」は、子どもに自分の人生をすべて奪われる恐ろしさに涙しています。出産時も、「私」や田所ではなく「お母さん」に見せてほしいと願っています。
そして呼称。「母(私)」は、子どもから「お母さん」と呼ばれるのは嫌だ、この世で「お母さん」は私を愛してくれる母のためだけにある言葉だから、と語ります。
え、何言ってんの……こわ。親離れできてなさ過ぎて怖い。
それから成長するにつれて子どもに「おばあちゃんのために、こうするのよ」「おばあちゃんにこう言いなさい」と指示をします。「お母さん」を喜ばせるために、「母(私)」は娘の言動に指示を出すのです。それが子どもの意向と違ってもお構いなしです。娘が「お母さん(おばあちゃん)」から手作りの刺しゅう入りのものをもらって喜んだあとで、「今度は市販のあのキャラのバッグが欲しい」と言ったら、それだけで「この子はお母さんの気持ちを否定した! お母さんを悲しませた! 感性も乏しいし、あれもこれも、田所の悪い血が濃く流れている!」と突然心の中でブチ切れだします。
これを毒親と言わず何という。
この「母(私)」にとっては、娘など、「私」が「お母さん」から愛されるための道具の一つでしかないようです。
理由3:母親から娘への歪な愛情と恨みが見えて怖い
この「母」が親の愛情を語る件にて、
「知識人だと思っている人たちの乏しい想像力は単純でくだらない。自分でそれに気づこうとしないで自分の納得のいく答えを出そうと作り出す。うんざり」
と語ってるのが、完全にうちのプチ毒母と同じ思考回路で恐ろしかったです。研究者や知識人は何もわかってない、自分こそが知ってる、というのは自己愛タイプの毒親の特徴ですね。


転機となる不幸な事件が起きた時も「お母さん」が優先
いろいろあって家が火事。「母(私)」は「お母さん」か「娘」かどちらかを選ばないといけない場面になりました。
娘は「ママ」と母に助けを求めながらも「母(私)」は娘を無視して「お母さん、大丈夫?」と、いの一番に「お母さん」の心配をしているのが、もう……。「お母さん」から娘のことを言われる瞬間まで、娘のことを忘れています。
どちらか二人しか助けられない状況になったとき、この「母(私)」が迷わず助けようとしたのは「お母さん」の方。「お母さんは私の一番大事な人だから」と娘を見殺しにすることを選んだのでした。
「お母さん」がどれだけ説得しても駄々をこねる幼児のように「お母さん」を助けることにこだわります。
そして……訳あって娘の方が助かりました。が、この「母」にはその辺の語り口も、実は後半に出て来る「田所」との証言が違うのです。
自分に都合のいいように記憶を捻じ曲げてる、怖い。
とにかくこの「母(私)」は「お母さんが願ったから娘を育てる」というのが娘に対する理由です。それって……。
理由4:娘の健気さが辛い
娘の回想では、完全に親に支配され抑圧されてきた子どもだな……というのが見て取れて苦しいです。前述したように「母」は彼女自身が「お母さん」からの愛情を手に入れるために、娘を道具として、「母が望む言葉」を言わせていました。
「大人は『真面目』というけど、あそび、ゆとり、余裕がないだけ」「大人の反応を気にする子供だった」「愛されるためには正しいこと、喜ばれることをしなければならない」そんな子供だった、と娘は回想します。
そして本当は「あなたがそこにいるだけでいい」「無償の愛」「無償の愛に育まれていたらどんな自分に成長していたんだろう」と本当に求めていたものの正体に気が付きます。
おばあちゃんからは無償の愛をもらっていたけど、母は違う気がする、大切にはしてくれたけど……と回想しているのが、辛い。
この後も二人の手記や回想が続くわけですが、二人の主張は違うようでいて、毒親育ちにはすごく身に覚えがあるものとなっています。毒親って、本人の中では愛情深い立派な親のつもりなんですよね。子供を無視して。
子供を可愛がってます! 何よりの宝物です! 生んでよかったです!
子どものためなら何でもやってあげられます。いつも子どものためにやってあげています!
でも子どもは思ったような反応をしないので可愛くないです。娘は私を愛するべき。娘は私に喜びを返すべき。私に与えてくれるべき。
娘の方が私を拒んでる。
いつも無視された。スキンシップの覚えなんかない。むしろ気持ち悪がられた。迷惑がられた。
親のために何かしなければこっちを向いてもらえなかった。親の役に立たないといけなかった。親に甘えるなんてできなかった。
娘は回想の中で、「母」から虐待を受けていたことをさらっと書いてますが、それでも「母」を愛し、求め、自分が守らなければというひたむきな思いを語っています。
やめて……もうやめていいんだよ、自分のために生きて……。
理由5:父親の存在感のなさと無能っぷりと都合のよさが腹立つ
随所随所で娘から「役に立たねーな」「ちょっと頼りになった」などなど言われる父親。よくある、存在感のない我関せずタイプの毒親です。実は、彼自身も幼少期から父親の虐待を受けて育った人だというのが「母」「娘」の両者から語られます。
暴力暴言はないけど、それなりに家族の信頼を裏切る行為をしています。それをいかにも正当化するようなことをのたまっています。正当化されねーからな?
理由6:最後の章は現実か夢か?
なんやかんやあって……とりあえず、娘視点で、ひとまず明るく平和な日々が続いていることが語られています。いろいろあったけど、今は丸く収まってます、みたいな。
それが現実ならいいけど、ちょっと上手くいきすぎて信ぴょう性がないな……と思っていたら、解説でもその点が指摘されていました。
私は、「最後のエピソードもまた娘の夢の中の話である」に一票です。根拠はありません。
理由7:解説「信用ならない書き手しかいない」
とても興味深い解説でした。母性とは、ではなく、ミステリーとしての手法に触れています。「信用できない語り手」というものだそうです。
- とってもいい人
- 苦しんでる子供
本作にはこの両方がいるということです。真実は藪の中……というか、私はどちらも真実なのだろうと感じています。「母(私)」は嘘を言っているのではなく歪んでいるだけ、それか都合の悪いことを無意識に隠しているだけ。娘が回想で語る母にされたことも、それで娘の心が傷ついたことも真実でしょう。その出来事をどっちの側面で見たか、というだけのこと。
どっちの側面で見たかによって全然違う話になるのが、毒親問題だよなあ……。
まとめ:映画観たい
「毒親」とは一言も言ってないところがまたいいですね。「毒親」というとそれだけで毛嫌いする層はいますから、母娘の両者の視点で語ることは全く違う内容だった、といえばミステリーとしてみる人も多いでしょう。
私はこの本を読み終わったとき、やっぱりあのアニメのいろんなセリフが想起されました。

映画は11月公開です。見たいけど映画館は苦手なので、家で見れるようになるまで待ちます。