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「かめれおん日記」にみる“プチ生きづらさ”

本を開く女性と中島敦の「かめれおん日記」

こんにちは、たまおです。

なぜ毒親ブログで近現代の作品紹介をするのか?

書評ブログではないです。

毒親育ちアダルトチルドレン生きづらさを抱えた人なんとなく生きていてモヤモヤを抱える人

そんな人たちに、私が小説の中に発見した「あるある」を見てほしくなっただけです。

私は、私の心や人生のとらえ方を、この本がすごくわかりやすく表現してくれている気がします。

中島敦全集。たくさんの付箋とつけられている。後ろには猫がいる。
気づけば不戦とマーカーだらけになってしまった、中島敦作品集。それなのに電子書籍でも入れてしまった。

作家、中島敦とは

学校の教科書でおなじみ、「山月記」の作者です。1909年ー1942年と33歳で喘息のため亡くなられています。喘息ながら猫好きだったそうです。

「山月記」にでてくる「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」は、本文を読んでいるととても分かりやすく的確で、誰もがあー!と顔を覆いたくなるようなものだと思っています。

と同時に次の一節もまた、私にとっては名文と感じています。

しかし、なぜこんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受け取って、理由も分らずに生きていくのが、我々生きもののさだめだ。

『中島敦』「山月記」ちくま日本文学012、中島敦著、筑摩書房、2009年、26頁

作家人生というものは1年足らず、生涯での著書は2冊という少なさであることがわかります。

そしてその時代には珍しくはなかったのでしょうけど、生母不在、厳しい(曰く“ヒステリー”な)継母、第二の継母との折り合いが悪かったこと、父に殴打された経験……現代と同じ軸で考えるわけにはいきませんが、この生い立ちが人生や作風に影響を与えていたようです。

ネットで調べたり本で調べていると、自己の暗い内面を見つめるばかりではなく、日常的にはモテ要素しかない様子がうかがえます。

子供のころから秀才で、友人のために熱くなったり、気障な面があったり、飄々と遊びに出かけるような人物像です。

奥様との話や家族への手紙など読んでいると、暗く落ち込んだ人間には見えないというか、却って作品の中にすーっとある冷たさ、冷静さ、現実をとらえる客観性と現実的な夢見がちな部分が際立つような気がします。

机の上に本や資料がある。ノートの上で遊ぶ子猫。
卒論のネタだし中に邪魔をする子猫ちゃん

「かめれおん日記」とは

日記風の短編となっています。

かめれおんを預かったところから始まり、かめれおんを眺める生活の中で「そういえば」と自己の内面を連想して書いているような作品です。

ちゃんとした書評は賢い人がたくさん書いているのでそちらを参考にしてください。私は古い文学作品であっても面白いと思ったら感情のままに語るオタクです。

この作品の魅力の一つは、作者の自分を見つめるさまが、自分が自分を評する描写が鋭いところです。

あーそうそう! そうなんだよね! 本当そんな感じ! すごいなんでわかるの!?

と思っちゃう作品です。

続いては私の好きポイントを紹介していきます。

あまりに多すぎるので毒親育ちあるあるかな?と思われる部分に絞っていきます。

ノートにペンで書いている指をかむ猫
筆記の邪魔をしたい子猫ちゃん2

書き出しが、設定がもう好き

と前置きしたばかりですが、やはり最初の書き出しは無視できませんでした。

博物教室から職員室へ引揚げて来る時、途中の廊下で背後から「先生」と呼びとめられた。

『中島敦』ちくま日本文学012、中島敦著、筑摩書房、2009年、317頁

本当は題名の後に漢詩が入るんですが、そちらは読了後に「ああ」と意味を感じるものなので、いったん飛ばして読みます。

先に引用した書き出しの後に先生と女学生のやり取りが続きます。それをまとめると

博物学の教師(若い)を、

女学校の女子生徒が顔を赤らめて呼び止め「かめれおん」を差し出してくる。

先生のほうは名前は思い出せないけど顔は知ってる程度の生徒。

女子生徒は顔を赤らめながら、何か聞き取れないこと(かめれおんの入手経緯)をしゃべってる。

生徒は渡してしまうと、それ以上は恥ずかしいように、ぴょこんとお辞儀をして去っていった。

というものです。本文はちゃんと書いてありますが、かみ砕きました。かみ砕かなくてもわかりやすく書いてあります。

これ、現実でものすっごく想像しやすくないですか?

私自身、暗くて目立たない生徒でした。名前がとっさに出てこないような立場の生徒です。先生に話しかけるのも緊張するタイプでした。

そして前述したように、中島先生はどうやら気さくな、気障な面もあったとか……正式な情報源は不明ですが女子生徒の憧れだったとか……ソース不明なところが残念ですが、そんな先生だったようです。

この女子生徒はこれ以降は出てきません。主人公である「私」(先生)とかめれおんの出会いのシーンでしかありません。

すみません、ここは本当に毒親とか生きづらさとか関係ない、ただ好きなだけです。

次に行きます。

開いた本の上に乗る猫
読書の邪魔をしてくる子猫ちゃん3

今なら『生きづらさ』と呼ばれる感情を言語化してくれる

何か私は人と違う、現実味がない

回顧的になるのは身体が衰弱しているからだろうと人はいう。自分もそうは思う。しかし何と言っても、現在身を打ち込める仕事を(あるいは、生活を)有っていないことが一番大きな原因に違いない

(中略)

とにかく、気が付いた時には、既にこんなヘンなものになってしまっていたのだ。いい、悪い、ではない。強いて云えば困るのである。ともかくも、自分は周囲の健康な人々と同じではない。もちろん、矜持をもっていうのではない。その反対だ。不安と焦躁を持っていうのである。ものの感じ方、心の向い方が、どうも違う。みんなは現実の中に生きている。俺はそうじゃない。

(中略)

直接そとのものに触れ感じることが出来ない。はじめはそれを知的装飾と考えて、困りながらも自惚れていたことがある。しかし、どうもそうではないらしい。もっと根本的な・先天的な・ある能力の欠如によるものらしい。それも一つの能力でなく、いくつかの能力の欠如である。

『中島敦』ちくま日本文学012、中島敦著、筑摩書房、2009年、329~331頁

太字協調は私によるものです。

あ、これ、私だ。

と感じました。

昔のことをなんとなく思い出しては懐かしいようなもどかしいような気持ちになる。でもきっと、現実が充実している人はそんな暇ないのでしょう。

そして私は何か人と違うように感じていました。そんな自覚はなかったけど、皆が感じるものと私の感じるものは何か違う。個性とかいうものではなく、何故か皆のように現実世界へ打ち込めない。皆それなりにしっかり今を生きているのに、私はなんだか人生を他人事のようにただ無為に過ごしているような。

それを、年取ってから、ああこれは人と違うのは特別ではなく私が変なんだ、皆が普通に経験して感じることが出来るのに私は感じることが出来ないんだ、とわかりました。

私が『生きづらさ』と呼ばれるものに思い至るより前にこの作品を読んだので、なんともドキッとしました。

昔はもっと何か良い感覚を持っていた気がするのに

カーペットの上でくつろぐやせた猫
昔はこんなにもやせていたのに……今は肥満猫に

そして別の場面では、「感覚の良さ」「かなり確かな記憶力」について、「私」は自らそれを軽蔑して捨ててしまい、実はそれが素晴らしいものであったことに気がついたもののもう取り戻せないとわかったときのことです。

前文から続いた描写があって光る部分かもしれませんが、ちょっと長いので省きました。

つまるところ、昔は「幼くて愚かしい」と思っていたものが年取ってみたら「輝かしいものだった」と知った、みたいな。

人間生活の多くの貴い部分が、最も基礎的な意味において精神のこの能力に負うていることを、身をもって悟るようになった今となっては、はや(様々な薬品の過度の吸入や服用その他によって)自分にそれが失われているのだ。

『中島敦』ちくま日本文学012、中島敦著、筑摩書房、2009年、333頁

そして「喘息の薬を服用しているために眠れない」という話があり「昼間は一日中ボーっとしているのに床についてからはかえって目がさえてくる、でも眠らないと」と考えている一節が続きます。こちらも長いので省略しました。

昼間はぼーっとして何もしてないのに、夜になるとめちゃくちゃ考え事が浮かんでくる。

なんかいいアイデアもあったような気がする。

でも明日仕事だから寝なきゃ……ああ、せっかく今なら頭がさえてるのに、その考えを自ら押し殺そうとすることにエネルギーを使うなんて、もったいない。いや、私がそんな立派な考えを思いつくような人間ではないけどさあ? でももしかしたら、あったかも、ねえ?

っていうことが書かれてます。

これ、眠れない人あるあるですよね。

未来に期待しない、悪い事態を想定する

私が何事かについて予想をするときには、いつも最悪の場合を考える。それには、実際の結果が予想より良かった時にホッとして卑小な嬉しさを感じようという、極めて小心な策略もあるにはあるようだ。私が人を訪ねようとすると、私はまず彼が留守である場合を考え、留守でも落胆しないようにと自分に言い聞かせる。それから、在宅であっても、何か取り込み中だとか他に来客がある場合のこと、また、彼が何らかの理由で(たとい、どんなに考えられない理由にしろ)自分に対して好い顔を見せないであろう場合、その他色々な思わしくない場合を想定して(中略)そういう場合でも決して落胆せぬように自分を納得させてから、出掛けるのである。

(中略)

何事についてもこれと同様で、ついには、失望しないために、初めから希望を有つまいと決心するようになった。落胆しないために初めから欲望を持たず、成功しないであろうとの予見から、てんで努力をしようとせず、辱めを受けたり気まずい思いをしたくないために人中へ出まいとし、自分が頼まれた場合の困惑を誇大して類推しては、自分から他人にものを依頼することが全然できなくなってしまった。

(中略)

それに触れると、どのような外からの愛情も、途端に冷たい氷滴となって凍り付くような・石となろうと私は思った。

『中島敦』ちくま日本文学012、中島敦著、筑摩書房、2009年、338~339頁

太字協調は私によるものです。

これもまた、毒親育ちアダルトチルドレン生きづらさを抱えた人に、もしかしたら共感できるものじゃないでしょうか?

もちろんすべての人に「あなたもそうでしょ?」と強要するわけではありません。全然共感も納得もできない人だって当然います。

ただ、私にとってはあるある!と納得出来るものでした。

「まあ、どうせ無駄だろうな」みたいな諦めの気持ち、最悪の状況を想定してそうでなかったら、ああよかった、と安心するような生き方。

私はこれを当然の考え方と思っていましたが、何人かと話していると、普通ではないんだ、と気が付いてしまいました。

結局私は自分中心なんだ、自分が可愛いだけなんだ

(考えて見れば、元々世界に対して甘い考え方をしていた人間でなければ、厭世観を抱くわけもないし、自惚やか、自己を甘やかしている人間でなければ、そういつも「自己への省察」「自己苛責」を繰返す訳がない。だから、俺みたいに常にこの悪癖に耽るものは、大甘々の自惚やの見本なのだろう。実際それに違いない。全く、私、私、と、どれだけ私が、えらいんだ。そんなに、しょっちゅう私のことを考えてるなんて。

『中島敦』ちくま日本文学012、中島敦著、筑摩書房、2009年、343頁

太字協調は私によるものです。

これなんですよね。これに尽きると思うんです。

いつも自分のことばかり考えてる。結局自分を中心軸にしている。

他の人みたいに、もっと大切な誰かを優先して考えることが出来ない。きっと他の人はこんなに自分のことを考えないんじゃないのか、と思います。だって他の人は仕事や自分の生活や好きな人、家族のことを考えているのでしょうから。

まったく、どれだけ私が偉いんだ。

これは初めて読んだ時から自分の心の中でふっと思い浮かんできます。

綺麗な白猫
「私がかわいいのは当たり前」という顔の猫ちゃん

職場の未婚あるあるがこの時代にも!

ちょっと長くなるので先に簡単に状況説明をします。

昼休み、職員室にいると何やら外で女子生徒たちの騒ぐ声がします。と思ったら去年の春に寿退社した音楽教師が、赤ちゃんを連れてやってきました。私の小学校の時の音楽教師って若くて美人で気の強い怖い先生でした。

学生時代のことを思い出せます。学園祭に、産休していた先生が出産した子を連れてやってきたときのこと。

〇〇先生久しぶり~! 赤ちゃん!? かわいい~!

なんていうキャピキャピ女子たち……私はそれに縁が遠いタイプでしたので苦い雰囲気を感じていました。

そして作中では、職場へ子連れでやってきた音楽教師に対する職員室の未婚女性たちの反応は興味深いものでした。

想像に難くない!

やってこられた立場のほうとしては、もてはやさないわけにはいきませんよね。自分の仕事も途中にして。本心はどう思っていても。

それを的確に表現した中島先生、すごい、と慄きながら読んでいました。その部分を下記に引用します。

羨望、嫉視、自己の前途への不安、酸っぱい葡萄式の哀しい矜恃、要するにこれらのすべてを一緒にした漠然たる胸騒ぎ。彼女等は口々に赤ん坊(全く、色が白く、可愛く肥ふとっていたた)の可愛らしさを讃めながら、男性には想像も出来ない貪婪な眼付をもって、幸福そうな若い母を、一年前とはすっかり変わってしまった髪かたちを、見違える程派手になったその服装を、(中略)――そうして、それらすべてから読み取らるべき生活の秘密をむさぼるように探ろうとする。赤ん坊を抱き取って、あやしながらその顏に見入る眼差に至っては、子供一般に対して婦人の有つ愛情とは全く別な激しさを以て爛々と燃え、複製を通じて原画を想像しようとする画家の眼といえども、到底この熱烈さには及ぶまい。

 三十分ばかり話してから帰って行ったこの若い母親と色白の男の赤ん坊とは、老嬢達の上に通り魔のような不思議な作用を残して行った

(中略)

 今日職員室を訪れた若い母親――先の音楽の教師は、去年私がこの学校へ来てから一月程して職を辞したのである。その頃の先生としての彼女と、今日の母親としての彼女とを比べて見る時、――音楽の先生というものは、他の学課と違って遥かに自由な派手な、教師臭くないものではあるが、――それでも、今日の方が一年前よりいかに樂しげに明るく、若々しく見えたことだろう

『中島敦』ちくま日本文学012、中島敦著、筑摩書房、2009年、352~354頁

太字協調は私によるものです。

もう、すごくその情景が思い浮かびます。

口々に「かわいい~!」と言いながら赤ちゃんを抱っこしてあやして回ってる光景です。

私なんかは、甥っ子が生まれてからもなお子供が苦手です。

子供を可愛いとは思えないのです。

もちろん「造形美としての可愛い」はわかります。肌が白くて小さくてお目目が真ん丸で、っていうキッズモデルみたいな子は、造形として可愛いです。

目がキラキラしている白猫
色白でお目目がキラキラの美少女猫ちゃんは可愛いに決まってる

ですが一般的に女性が赤子に対する「かわいい」はそれとは違うんですよね、たぶん。職場の50代の女性なんか「もう一回子育てしたいくらいだわ~」なんて言ってます。

私はその赤ちゃんと新米ママをほめそやす空気が非常に苦手です。私は自分自身が結婚したいとも子供を持ちたいとも思ってませんから、彼女たちに共感することもできません。むしろ結婚も子供も、私の人生にとっては悪いもの、という認識なので別世界の出来事です。

しかも結婚願望のある未婚女性や、既婚していても妊活中の女性がその場にいると、すっごく気を遣う話題ですよね。

職場には「不妊治療中の同僚がいるのをわかってて子連れで遊びに来るなんて、あの人無神経だから嫌い」という女性もいました。もうそのあたりの人々の感情の錯綜なんて、私には想像も及びません。

帰って行った後でも、なんか妙にそわそわした雰囲気が残っているというか……帰ったからと言って、いきなり無言で能面の顔して仕事に取り掛かるわけにもいかないような。

しばらく「〇〇ちゃん可愛かったね。〇〇さんの旦那さんもいい人そうだよね」など、帰った後も感想を言い合う時間があります。本心では「何しに来たんだろ。用事をさっさと済ませて帰ればいいのに。仕事の途中だったのに」とぼやいてるし、さっきまでニコニコしていたのでものすごく疲れています。

うちの職場だけかもしれませんが。

だからこの部分の描写に「その時代からそんな空気になるなんて……いつの時代も一緒か」とも思いましたし「それを瞬時に感じ取って描写する中島先生は鋭い」と驚きます。

可愛い女学生、再び

可愛い白猫と灰色の猫
「可愛いと言えば私」と言わんばかりの猫ちゃん

最初の女学生とは別だと思ってますが、先生と女学生のやり取りがまた可愛いのです。

別の先生がある試験に合格したことを、自身のクラスの女の子たちに「新聞を持って来てくれたまえ(そこに自分が合格したことが書いてあるから!)」という形で、自分が合格したことを自慢してきた……ということを、女子が二、三人で「私」である先生に愚痴っています。(先生は、「おせっかいにも教えてくれた」と表現しています)

「それをわざわざ私達に知らせる為に持って来させたのよ。いやんなっちゃうわ。ほんとに。」と生徒の一人は、生意気な口をきいた。

『中島敦』ちくま日本文学012、中島敦著、筑摩書房、2009年、357頁

担任じゃない先生にそんなこと言っちゃう女子生徒、いますよね!

先生に甘えるのが大好きというか。先生に聞いて聞いて攻撃して、先生も付き合って聞いてくれるから余計に先生大好きな生徒。

「先生聞いて! 〇〇先生がさー、わざわざ私たちに持ってこさせたのよ。ありえないよね!」

と大人びた口調で、先生的には「生意気な口を」いうんですよね。

可愛い……と同時に、私には縁遠い世界でしたが。

縦社会や上下関係に従順な構図が頭に染みついているので、なぜ彼女ら彼らは目上の先生に対してそんなに甘えることが出来るんだろう、と不思議でした。

随所に挿入される女学校の生徒と先生のやり取り……きゅん、というのか、ギュッ、というのか、奥歯がむず痒いような可愛い世界が見えます。

まとめ

勉強の邪魔をする猫
やっぱり勉強の邪魔をする猫ちゃん

ただの好きポイントを書いただけのところもありますが、好きポイントはもっともっとたくさんあります。書き出すとほぼほぼ全文引用みたいなことになるので無理ですが、好きな文章にマーカーを引いてるとマーカーだらけになってしまいました。

最近は毒親育ちアダルトチルドレン生きづらさを表題にした著作は多いです。私も何冊か読みました。まだまだ読み足りないですが。

でも、そうはうたってなくても「あれ? この作品はこんなに昔のものなのに妙に私にそっくりだな」と思うような作品があります。

読書はものすごい精神エネルギーを使うので疲れているときは読めない、と聞きます。

だから、ぜひ読んでください!とは言えません。読みたくなったら勝手に読むだろうと思っています。本はいつでもそこにあるものですから。

しんどい時、本は読まなくてもいいと思ってます。ただ私は読めるから読めるときだけ読んでます。

今回こうして書きだしたのも、これは誰かの救いになる!という思いではなく、こんな面白いものがあるよみてみて~ぐらいの気持ちです。

私にとって文章を読むこと、書くことはセラピーになっている気がします。

いくつか読んできた本の中には、読んだ内容を忘れた本も多いです。「確かそのタイトルの本、家にあった……本当にあったっけ? 本屋さんで見かけただけだった?」レベルの記憶力です。

一方ではずーっと心に突き刺さったフレーズもあります。

私にとって文学とは、そういうものだと思っています。

歴史書ではなく、自己啓発本でもない、知識を増やす本でもない。ただふわっと寄り添ってくれる文章がある。

遠藤周作の本でも文学とは、と語っている部分があります。そこは涙が出るほど「ああ、それだ」と納得するものでした。

こちらもまたいつかご紹介できればと思います。

以上、プチ毒親育ちプチ生きづらさを抱えた私が気づいた、プチ生きづらいを描写した作品の紹介でした。

また思い立ったらやります。読書感想文セラピー。

読書感想文や合宿感想文、昔から好きでした。先生にもよく褒められたからでしょうか。

ABOUT ME
たまお
独身30代女。一人暮らし+猫7匹+地域猫。保護した子猫がなかなか譲渡が決まらない。 自分は恵まれていると思っていたら、実はプチ毒親プチ機能不全家庭育ちで生きづらさを抱えているのだと発覚した。 現在「生きづらさ」とは違う「自分らしさ」を模索中。 別ブログには、20代後半の婚活について振り返り中。https://konkatsu.tamaogatari.com/