今回は好きな本を紹介します。読んで欲しい!と強くお勧めするものではありません。なぜなら誰もが楽しく読める本、大衆受けするような心温まる作品ではないからです。
それは、遠藤周作、長崎切支丹三部作です。
作品を通じて、信仰とは何か?を考える。
作者の『沈黙』への執筆に対する思いから、文学とは何のためにあるのか?を考える。
特に、文学とは何のためにあるのか、架空の物語は無駄じゃないのか?という疑問に一つの答えを得て感激しました。日本文学部出身です。
長崎切支丹三部作を構成する要素・テーマ
『沈黙』『女の一生 一部・キクの場合』『女の一生 二部・サチ子の場合』をまとめて長崎切支丹三部作と呼ばれます。
字面からわかるように、長崎のキリシタンについて取り上げています。潜伏キリシタンと隠れキリシタンの違いはありますが、ここでは「禁教時代のキリスト教徒」のキリシタンとして用いています。
長崎切支丹三部作の主人公はキリシタンとして迫害・差別・拷問を受けています。
特に『沈黙』は迫害を受けている司祭が主人公とあって、迫害や拷問シーンが多く描かれています。
『女の一生』は女主人公の恋を交えながらも、自身や相手がキリシタンであるがために差別や拷問を受けるシーンがかなりあるので、「禁じられた恋ドキドキしちゃう」とかいうお花畑で読むものではありません。
信仰するものがない人間でも神に訴えたくなる
私は特定の宗教を信仰しているわけではありません。
ですが、長崎切支丹三部作に出てくるキリシタンたちが抱く苦悩を想像するだけで胸が苦しくなります。
彼らは信仰や教えに従い、信仰を捨てずに苦痛にさらされます。その中で幾度も「本当に神がいるなら彼らや私たちの苦しみを救ってくれ」と祈っています。
それでも神は常に沈黙し続け、記憶・想像・教会の中などに存在し続けます。神や聖母の語り掛けがあるのは、主人公たちが死に瀕した、あるいは棄教して心が死んだ時でした。
神の存在を論じることが目的の作品ではありません。
信仰を抱く人々が苦悩する様子を通して、何かを訴えかけ、読者がそれぞれに何かを感じ取る作品です。
私が作品から感じたことを簡単に
ここからは読みながら何度も抱いた感想を端的に書き連ねていきます。
- 信仰とは、教会の教えに従うことなのか?
- たとえ踏み絵を踏んだり、口先で「転ぶ(棄教する)」といったりしても、心の中で神を信仰していれば、それが信仰ではないか?
- そこまで教会の教えが絶対的なのは、信仰とは別の教会の利得を守るために構築されたシステムなだけでは?
- 信仰のために肉体的に痛めつけられ尊厳を失われ命を落とすようなことを、彼らが信仰する神は望んでいないよ。
- 棄教したからといって、踏み絵を踏んだからといって神は怒らないよきっと!!
- 拷問に屈して棄教した人を差別しないでほしい……。それは「弱い」んじゃないんだよ。
- 時代によって、政府によって、一般市民の倫理観も変わる。
- 今でもニュースになるような虐待親がやってそうな残酷なことを国が認めて行い、一般市民もそれを正しいことと信じていた。そんな時代があって、人間はそんな心理になるんだ。
- きっと私が生きる今でもそういうことが起きているんだろう。数十年後、数百年後には、私の生きた時代も悲惨な時代として映るのかもしれない。
- キリシタンを迫害するお役所側の登場人物たちも、それが国からの命令だからやっている。彼らは加害者ではあるけれど、批難できない。自分がその状況や立場に置かれた時に、上の命令に背いてまで他者の尊厳を守るような行動が取れるだろうか?
- きっと無理。囚人と看守の心理学の実験があったぐらいなんだし。それは人間の脳の問題であって、精神論ではない。
- 登場人物の誰が悪いというわけではない。
こういうことを色々考えていると、宮沢賢治の「ほんとうのさいわい」という言葉が頭に浮かんできました。ジョバンニやカムパネルラの言う「ほんとうのさいわい」、「永訣の朝」の「わたくしのすべてのさいわい」……理由はよくわかりません。
印象的な場面の引用
次に具体的に衝撃を受けた文章を引用します。
(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう十分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから。
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」
「私はそう言わなかった。今、お前に踏み絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」
遠藤周作(昭和56年)『沈黙』 株式会社新潮社 P.294
「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」
遠藤周作(昭和56年)『沈黙』 株式会社新潮社 P.294
次に引用する部分の補足説明。主人公が好きな相手のために身を売り、体調を崩し、聖母像のもとで死亡したのが発見された場面にて。
駆けつけた警吏や女性は「ふしだらな娘だから、仕方ない」などと言って見下しているが、その主人公にとって憎まれ役のような立場の男「伊藤」が一喝。(愛や信仰心に生きる「強い」主要人物に対して、複雑な心の動きをよく示した人間らしい「弱い」人物として描かれている)
「せからしか」
突然、伊藤がこちらを急に振り向いた。
「お前らに……なんのわかっとっとか」
そのあまりに烈しい怒鳴り声に、警吏もお兼さん夫婦も怯えた顔をした。
「お前らに……こん娘の何のわかっとっとか。こん娘は……そげん、娘じゃなか。こん娘にくらべたらお前らやこん俺のほうが……もっとうすぎたなかぞ……」
遠藤周作(昭和61年)『女の一生 一部・キクの場合』 株式会社新潮社 P.565
弱者たちは政治家からも歴史家からも黙殺された。沈黙の灰のなかに埋められた。だが弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。彼等がそれまで自分の理想としていたものを、この世でもっとも善く、美しいと思っていたものを裏切った時、泪を流さなかったとどうして言えよう。後悔と恥とで身を震わせなかったとどうして言えよう。その悲しみや苦しみにたいして小説家である私は無関心ではいられなかった。(中略)私は彼等を沈黙の灰の底に、永久に消してしまいたくはなかった。彼等をふたたびその灰の中から生きかえらせ、歩かせ、その声を聞くことは−−それは文学者だけができることであり、文学とはまた、そういうものだと言う気がしたのである。
遠藤周作(1974年)『新装版 切支丹の里』 中央公論新社 P.30~31
転び者と言われる棄教者たちのことを教会も歴史も沈黙の灰のなかに埋めている。しかし弱者も人間ならば、沈黙の灰の中から彼等をひろい出しその声を聞くのは文学である。
遠藤周作(1974年)『新装版 切支丹の里』 中央公論新社 P.106
彼らには何の記録もないのです。彼らは本当に声がなかったのか。歴史が沈黙し、教会が沈黙し、日本も沈黙している彼らに、もう一度生命を与え、彼らの嘆きに声を与え、彼らに言いたかったことを少しでも言わせて、もう一度彼らを歩かせながら彼らの悲しみを考えていくというのは、政治家でも歴史家でもなく、これはやはり小説家の仕事ですよ。
(中略)
彼らを沈黙の灰の中から呼び起こしたかった。沈黙の灰をかき集めて、彼らの声を聴きたい。そう言う意味で『沈黙』という題をつけました。併せて私は、そういう迫害時代に多くの嘆きがあり、多くの血が流れたにもかかわらず、なぜ神は黙っていたのかという、「神の沈黙」とも重ねたのです
遠藤周作(令和元年)『人生の踏絵』 株式会社新潮社 P.22~23
信仰か、自分の身か。強いのか、弱いのか?
『切支丹の里』でも触れられていますが、信仰を守り殉教したり拷問に耐え抜いた人は「強い人」であり名を残し尊敬されます。
一方で、拷問に耐えられず、殉教を選ぶこともできず、棄教した人は「弱い人」として蔑まれ名を残さなかったとされています。生き残ったキリシタンは、信仰を守れなかったからこそ生き残ったのだ、と言う裏切りの意識があったのだと書かれています。
それは「強さなのか、弱さなのか」と考えてしまいます。
信仰を守り苦痛を耐え、尊厳も家族も何もかも奪われ、あるいは信仰のために命を奪われた人の強さもすごいです。
しかしその「強さ」を真似しろ、殉じろと言われながら、心が引き裂かれながらも「棄教する」ことを選んだ人の葛藤や選択は「弱い」と言えるでしょうか?
後ろ指を刺され、神や仲間を裏切ったと言う意識に苛まれ、かつての拠り所であった教会や信徒の仲間に戻れず、しかし再び信仰に戻ることを選んだ人たち。
時代や国に翻弄され、自身の身の置き場所や心のあり方に悩みながら生き抜いた人たちを「弱い」とは言えないのではないでしょうか。
『女の一生 一部』の伊藤もまた、私は嫌いにはなれません。彼は確かにキリシタンたちに拷問を行なっています。
伊藤がどれだけ「本当は苦しいんだ、やりたくないんだ」と言っても、やってることは残酷で、小狡いこともやってます。褒められないことをやりながらも、彼は成功者にはなれず小役人でしかありません。この、残酷な行いと内心の苦しさの乖離、そのくせ時代の成功者とは程遠い人間味が、彼をただの憎まれ役では済ませないのでしょう。
……と書いていて思いましたが、残酷でずるいことをしている大人って今でも普通にいますよね。児童虐待者や犯罪者のことを思うと、綺麗事は言えません……。
キリシタンゆかりの地に旅行した
2016年。テレビCMで映画『沈黙』を知り、NHKの「こころの時代〜宗教・人生〜」で『沈黙』を知り、本を買い、その年の夏に熊本の友人と天草方面へ旅行し、翌年正月は家族と五島列島の福江に旅行し……意図せずキリシタンに関連する年でした。
友達と旅行に行った時は、まだ小説を読んでいない、ただ歴史の授業で「隠れキリシタン(潜伏キリシタン)」の名前を知っていただけの観光客でした。


崎津の鳥居から十字架を掲げた境界が見えること、その神社で踏み絵が行われていたこと。その場所に立って何とも言えない気持ちでした。
夏は天草、崎津、大江天主堂にいき。熊本地震の復興支援割で「五足のくつ」という高級旅館に泊まれるというミラクル……。
冬には長崎市内で大浦天主堂と資料館へ行き。(この時もまだ『女の一生』を読んでなかった)

年明けには堂崎天主堂、水ノ浦教会へ行き。(『沈黙』だけ読んでた)



小説を読んだ今、もう一度行きたいです。資料館もじっくり見たいな。
まとめ:期せずして文学のあり方に触れた
特定の信仰を持っていない私でも、キリシタンの小説に人間の心の苦悩に涙しました。そして遠藤周作『切支丹の里』で描かれていた、「政治にも歴史にも残らない、消された弱者の声を蘇らせることができるのは文学だけだ」という考え方に強く胸を打たれました。
私は文学部出身で小説が好きです。はっきりいって、生産性がない無駄とか道楽とか言われても反論できません(私は)。それでも文学は、人間が文字を得てから生まれ続け、残り続けてきました。それが「無駄」と言われながらも、誰もはっきりとした理由を説明できなくても残り続けている「結果」だと思っています。
生産性はないし、想像の話だし、真実ではないし、歴史のような事実ではないし、政治的な意味があるのでもないし……。
でも、だからこそ「そこに存在したかもしれない人間の人生や心を想像して蘇らせる・伝える・残す」ことができるんですよね。想像で、真実ではない(かもしれない)し、歴史家も政治家も認めない「人間」を語ることができるのは、文学だけであり、それこそが文学のもつ意味の一つなんです。
異論は認めます。私の中では一つの答えを得たというだけなので、他の意見があってもいいと思います。
信仰心はないし、特別に大切に守っているものもないし、登場人物のように恋や愛に生きたこともない人間でも、言葉にできない気持ちで胸が締め付けられ涙できる作品たちでした。